震災ボランティアを、改めて考える 木越 康先生
2016年 06月 13日 (月) 23:26 | 編集
プロフィール:木越 康(きごし・やすし)一九六三年生まれ。一九九四年より大谷大学教員として着任し、二〇一六年四月より大谷大学長。著者は『「正像末和讃」を読む』(真宗大谷派大阪教区)など多数。

震災ボランティアを、改めて考える

 東日本大震災が発生してから早五年の歳月が経った。日頃の報道で見聞きする以上に、復興はまだ道半ばというのが実情であるようだ。
 さて、震災直後より復興支援活動に熱心に取り組んできた大学の一つに、大谷大学がある。年四回にわたり、バスをチャーターして約二十名の学生が現地でのがれき撤去や被災者との対話を続けてきた。その先頭に立ってきたのが、木越康先生だ。三月には新刊『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』を出版された。そこには、浄土真宗が震災にどのように向き合うべきか、思いの丈が綴られている。

ボランティアは、自力なのか?

 震災の年となった二〇一一年は、浄土真宗にとって親鸞聖人七五〇回御遠忌を迎える特別な年だった。東日本大震災は、正にその年の三月十一日に発生したのであった。
福島県への第一回目の復興支援バスが運行されたのは、五月だった。学生とともにがれきを撤去している中、こどもたちが野球の練習に出かける姿を目にする。地元の人々は、悲しみや苦しみの中で、日常生活を取り戻すべく生きようとしている中で、京都から来た我々は、日常を捨ててまで現地で支援することが良いのか? 学業や仕事も無理に休まず、あくまでも有志での活動を優先するのが大谷大学での復興ボランティアの特徴だ。
四回目の支援の時、ある学生からこのように話しかけられた。「これまで、支援バスに何度も乗ろうとして、乗れなかったんです。ボランティア活動が自(じ)力(りき)であるために、行きたいという気持ちにブレーキがかかっていた」と……。親鸞は自力的行為を棄て、阿弥陀仏に帰依することで救済される「他力の思想」を説いたのであり、ボランティアは人間的行為そのもの(自力)で、それは否定されるべきであるという考えが根底にあるために起こる問題だという。そのことへの違和と、真宗者としてきちんと議論したいとの思いが、本書を執筆するきっかけになった。

仏教者であること、真宗者であること

 隣人が困っている時、何とかして助けようとするのは、人として自然な振る舞いなのだろう。震災に遭遇すると、その気持ちが高まるのはなおさらだ。ただ、ボランティアが自力ではないか、という独特の発想の前に、その行動を躊躇させる要素が真宗にはあるのだという。そう思わない人にとっては、「なんだそれ?」ほどのレベルなのかもしれないが、「真宗的ブレーキ」の縛りは根強く残っているという。木越先生は、そうした特殊なブレーキについて理解はしながらも、「災害時、躊躇などの情動を抑えきれず、現地に向かい、眼を離さずそばに寄り添える人間でありたいし、学生にもそうあってほしい」と語る。「私たちは、ご縁で成り立つ世界の中で生きる存在です。仮に、そうした心理的なブレーキがかかったとしても、個々の人間の活動は止めることができないだろうし、被災した人も私たちも、悩みながらともに歩むことにこそ、「同朋」の意味が研ぎ澄まされてくるのではないでしょうか」。災害の多い日本にあっては、いつ誰が被災者になるか分からない。突然やってくる悲しみや苦しみにも、じっと向き合い、また寄り添えるか、今なお私たちに重く問いかけられている。

木越 康先生
4月から学長に就任。多忙を極める毎日だが「被災地へは、今後も極力行きます」と決意しているそうだ。(大谷大学内にて)

139『ひとりふたり‥』 2016 お盆号「著者に会いたい」に掲載 
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